イタロ・カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』を読了、ヘンリー・ミラーの『Tropic of Cancer』を英語で読み始め、先ほど カトリーヌ・ブレイヤの「ロマンスX」を鑑賞。現在、グレン・グールド演奏、ブラームスのBalladesをヘッドホンで聞きながら文章を書いている。これまでの渇きを癒すかのようにアートに触れる日々。それだけ身体が欲していたということだろう。
先日、大学院の後輩とも話したのだが、ヘンリー・ミラーは最大の博愛主義者だと思う。数年前に『Tropic of Capricorn』を読んだとき、身体が震え涙で文字が見えなくなった。『Tropic of Cancer』も然り。しかもCancerの場合、舞台がパリなだけにいっそう思い入れが深い。
ミラーの作品の本当の魅力は英語で読まなければ分からない。文体が身体を突き刺し、血液を浄化するような快感がある。僕のなかにある三つの言語、日本語、英語、フランス語のうち、英語は読み、話す言語、フランス語は聞く言語、日本語は・・・強いて言えば書く言語か(身体的な快感という意味では、英語の方に分がある)。
まったく期待していなかった「ロマンスX」だが、意外なことにけっこう面白かった。女性の語り手によるセックスの告白という点では、マルグリット・デュラスなどの先例がいくらでもある。ただこの作品の場合、女性の身体性と欲望を直接的なイメージとして表象したというところが特異なのかもしれない。映像の衝撃性という意味では、今年の春パリで見た(そして日本では絶対に公開することのできない)、ラース・フォン・トリアーの「Antichirist」の方がはるかに強烈だったが。
肉体的な痛みを感じなくなって久しい。柔道をしていた頃は、毎日のように畳に投げつけられ、骨も折ったし、捻挫や打ち身も数え切れないほど繰り返した。いまでもジョギングのときに意識的に身体をいじめたりはするが、それでも肺が焼けつき、多少の酸欠を感じる程度。もう少し違う刺激を与えてもいいような気がする。
現代思想の流行で「身体知」ということをよく言う。しかしそれがどんなものだか、とうとう最後まで分からなかった。デカルト以降の理性的人間に対するアンチテーゼを、西洋のインテリが仲間内で騒ぎ立てているようにしか思えなかった。肉塊でしかない身体を引きずりながら、その肉塊を好きなようにもてあそんだ方がよほど面白い、という気もしないでもない。
先日、大学院の後輩とも話したのだが、ヘンリー・ミラーは最大の博愛主義者だと思う。数年前に『Tropic of Capricorn』を読んだとき、身体が震え涙で文字が見えなくなった。『Tropic of Cancer』も然り。しかもCancerの場合、舞台がパリなだけにいっそう思い入れが深い。
ミラーの作品の本当の魅力は英語で読まなければ分からない。文体が身体を突き刺し、血液を浄化するような快感がある。僕のなかにある三つの言語、日本語、英語、フランス語のうち、英語は読み、話す言語、フランス語は聞く言語、日本語は・・・強いて言えば書く言語か(身体的な快感という意味では、英語の方に分がある)。
まったく期待していなかった「ロマンスX」だが、意外なことにけっこう面白かった。女性の語り手によるセックスの告白という点では、マルグリット・デュラスなどの先例がいくらでもある。ただこの作品の場合、女性の身体性と欲望を直接的なイメージとして表象したというところが特異なのかもしれない。映像の衝撃性という意味では、今年の春パリで見た(そして日本では絶対に公開することのできない)、ラース・フォン・トリアーの「Antichirist」の方がはるかに強烈だったが。
肉体的な痛みを感じなくなって久しい。柔道をしていた頃は、毎日のように畳に投げつけられ、骨も折ったし、捻挫や打ち身も数え切れないほど繰り返した。いまでもジョギングのときに意識的に身体をいじめたりはするが、それでも肺が焼けつき、多少の酸欠を感じる程度。もう少し違う刺激を与えてもいいような気がする。
現代思想の流行で「身体知」ということをよく言う。しかしそれがどんなものだか、とうとう最後まで分からなかった。デカルト以降の理性的人間に対するアンチテーゼを、西洋のインテリが仲間内で騒ぎ立てているようにしか思えなかった。肉塊でしかない身体を引きずりながら、その肉塊を好きなようにもてあそんだ方がよほど面白い、という気もしないでもない。
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