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Wednesday, January 6, 2010

タラユマラ

Antoine d'Agataという写真家がいる。マルセイユに生まれ、世界中を放浪した後、ニューヨークで写真家になったアーティスト。現在はマグナムの準会員。身体をテーマにした作品は、フランシス・ベーコンの絵画のような印象もあり、同時になぜかペドロ・コスタのことも思い起こさせる。

Hambourg, 2000

彼が2005年に発表した「MANIFESTE」は、アントナン・アルトーの『タラユマラ』の次の一節を引用している。


C'est comme le squelette du devant qui revient, m'ont dit les Tarahumaras, du RITE SOMBRE; LA NUIT QUI MARCHE SUR LA NUIT.

「それはまるで、帰還する骸骨のようなもの」とタラユマラ族は私に言った。「闇の儀式、夜の上を歩む夜からの帰還・・・」


日本の文学界でアルトーの話をすると、たいていデリダやドゥルーズと絡めた上で、言語表象の臨界や身体性といった方向に話題が逸れていく。フランスのインテリとアルトーの話をすると、「あぁ、若い頃はよく読んだよ。彼のポエジーとパッションは最高だよね」という反応が返ってくる。アルトーを、アルトーそのものとして捉えているのである。

作品のポエジーを殺してしまうような分析には魅力を感じない。ポエジーとは、深夜のバーで酒を飲んでいるときに感じる焦燥感とかすかな甘みであり、文学とはその感度を極限まで高めることである。深夜のマレ地区でブルガリア人とビールを飲んでいたとき、フッと世界が遊離して見えた。現実の間隙に指を差し込む、そういった感性を研ぎ澄ますこと。

リンク : Antoine d'Agata

Tuesday, January 5, 2010

ジャコメッティ

ジャコメッティの画集を買おうと本屋に行くが、見つからなかった。仕方がないのでジャン・ジュネの『ジャコメッティのアトリエ』でも買おうと思ったが、こちらも見つからなかった。しょうがないので、家に帰って数年前のMoMA展のパンフレットを眺める。

Diego Seated in the Studio, 1950

ジャコメッティの絵画、あるいはあのヒョロ長い彫刻でもいいのだが、何がそんなに魅力的なのだろうか。疲労の極地で、余計なものすべてをこそぎ落とされた人間が、ギリギリの尊厳を保ちながらそれでもそこにいる、ということなのだろうか。

疲労が溜まってくると、無駄な体力を消費する余裕がなくなるので、感情のブレも少なくなるし、日常の行動もスリムになる。自動人形の果てに自由が訪れる感じ。

「人間は肉を捨て去り、骨にならなければならない」、というようなことをアルトーが言っていた。疲弊の果てに生まれる崇高さ、というのもあるのかもしれない。

Wednesday, December 30, 2009

アート雑感

イタロ・カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』を読了、ヘンリー・ミラーの『Tropic of Cancer』を英語で読み始め、先ほど カトリーヌ・ブレイヤの「ロマンスX」を鑑賞。現在、グレン・グールド演奏、ブラームスのBalladesをヘッドホンで聞きながら文章を書いている。これまでの渇きを癒すかのようにアートに触れる日々。それだけ身体が欲していたということだろう。

先日、大学院の後輩とも話したのだが、ヘンリー・ミラーは最大の博愛主義者だと思う。数年前に『Tropic of Capricorn』を読んだとき、身体が震え涙で文字が見えなくなった。『Tropic of Cancer』も然り。しかもCancerの場合、舞台がパリなだけにいっそう思い入れが深い。

ミラーの作品の本当の魅力は英語で読まなければ分からない。文体が身体を突き刺し、血液を浄化するような快感がある。僕のなかにある三つの言語、日本語、英語、フランス語のうち、英語は読み、話す言語、フランス語は聞く言語、日本語は・・・強いて言えば書く言語か(身体的な快感という意味では、英語の方に分がある)。

まったく期待していなかった「ロマンスX」だが、意外なことにけっこう面白かった。女性の語り手によるセックスの告白という点では、マルグリット・デュラスなどの先例がいくらでもある。ただこの作品の場合、女性の身体性と欲望を直接的なイメージとして表象したというところが特異なのかもしれない。映像の衝撃性という意味では、今年の春パリで見た(そして日本では絶対に公開することのできない)、ラース・フォン・トリアーの「Antichirist」の方がはるかに強烈だったが。

肉体的な痛みを感じなくなって久しい。柔道をしていた頃は、毎日のように畳に投げつけられ、骨も折ったし、捻挫や打ち身も数え切れないほど繰り返した。いまでもジョギングのときに意識的に身体をいじめたりはするが、それでも肺が焼けつき、多少の酸欠を感じる程度。もう少し違う刺激を与えてもいいような気がする。

現代思想の流行で「身体知」ということをよく言う。しかしそれがどんなものだか、とうとう最後まで分からなかった。デカルト以降の理性的人間に対するアンチテーゼを、西洋のインテリが仲間内で騒ぎ立てているようにしか思えなかった。肉塊でしかない身体を引きずりながら、その肉塊を好きなようにもてあそんだ方がよほど面白い、という気もしないでもない。

Saturday, December 5, 2009

「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン」

恵比寿の東京都写真美術館で開催されている「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン」展に行ってきました。共にライカを使用し近代写真を切り開いたアーティスト、木村(1901~1974)とブレッソン(1908~2004)。あまり期待しないで行ったのですが、予想に反して面白かった。

戦後の日本の風景を白黒でとらえた木村の写真は、目にするのは今回が初めてだったけれど、どこか懐かしさを感じさせるものでした。ロラン・バルトが『明るい部屋』という写真論のなかで亡き母の写真について言及し、「ここに写る母はもういないが、この写真は母が確かに存在したことを証明する。《それは=かつて=あった》のだ。その事実が私を貫く」ということを書いていたが、木村の写真からも同じような印象を受けました。写真に写る彼ら・彼女らはもうすでにいないが、彼ら・彼女らは確かに存在したのだ。

ルーマニアの宗教学者、ミルチャ・エリアーデが「人間存在の破壊されえないこと(indistractivility of human existence)」ということを言っている。何が起ころうとも、どれだけの時が経とうとも、ある人が(例えばあなたが)存在したという事実は決して否定されない。人間存在の不滅性を、写真は刻印する。

リンク:「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン」