Tuesday, January 29, 2013

生命体

「チームの戦力になる」という考え方自体が間違っている。ある種哲学的な、ドゥルーズ的な概念に聞こえてしまうかもしれないが、自己は全体の一部ではなく自己が全体なのだ。何もかもやる主体としての自己同士がネットワークを形成したとき、チームは各人が部分でもあり同時に全体にもなる。そこに波動が生まれ、マーケットは動き出す。

「ゲーテはこう考えていた。全体はダイナミックで生きていて、たえず『具体的な現象』の形になって現れるものである。これに対して部分は、全体の構成要素であるだけでなく、全体を表象するものである。全体がたえず部分に現れることで、部分は全体を具現化したものとして存在している。(・・・)端的に言えば、グローバル組織という新たな種の最大の問題は、生命体であるという自覚がない点にある。その自覚ができた時、組織は、過去ではなく未来の全体を具現化する場になりうる。」
『出現する未来』ピーター・センゲ他

チームがひとつの生命体なのだとしたら、一人が感じている痛みは全体の痛みである。最大の力を発揮させたいのならば、全身の筋肉を総動員する必要がある。


Sunday, January 27, 2013

メモ

男性の成熟とは、−子供のころ遊戯のおりにみせた真剣さをふたたび取りもどしたこと。
『善悪の彼岸』ニーチェ

Thursday, January 24, 2013

フェリーニ

別に一流のビジネスマンになりたい訳でもない。ただ、自分の人生を冒険の連続にしてみたいだけ。色気のない生活も嫌だ。どこまで粋に生きていけるのか、ただ、それだけ。常にかっこよく、おしゃれに、日常を非日常にする想像力を忘れずに。だだっ広い草原に勝手に囲いを作って自分自身を家畜にしているのは他でもない自分。くだらねぇ。人生は祭りだ、ともに踊ろう。フェリーニのように、生きるとは白昼夢。

Wednesday, January 23, 2013

主体

常に主体は誰なのか、という問題。誰かにむかついたり、というのは自己が他者によって支配されているということ。かけがえのない存在としての自分が世界の中心であるとき、世界でおこるすべてのことは自己の前進ためにある。目の前にあるリアルな現状からいかにして未来を作っていくのか。未来はいま作られる。

基本は健康。疲労を肉体に蓄積させないこと。自分という存在を安定させるためにも肉体のメンテナンス。

Thursday, January 17, 2013

リーダー

問題が起きたときにどのように反応するかでリーダーの力量ははかられる。問題を個人のせいにしている限り、成果は絶対に上がらない。チームの中にスケーブゴートが生まれ、他の者はすべてをその者との比較の中でとらえ、それ故チームの誰も成長しなくなる。

チーム内で起きた問題はすべて自分のせいであるという覚悟がリーダーには求められる。自分の伝え方がまずかったのではないか、自分のチェックが甘かったのではないか、と常に自己を見直すことが必要である。その上で、それでは他のメンバーはどうなのか、他のメンバーだったならきちんと対応できたのか、など、つまり常に個々の問題を普遍的なものへと帰納させていくことが求められる。

個人を責めたて、加害者と被害者を作っても成果は上がらない。ビジネスとは人である。被害者が生まれた瞬間、そこからさらに問題は噴出する。チームの一人一人が本当に自ら主体的に行動できるように、その場を整えていくのがリーダーである。

「リーダーシップとは、つまりは人間の可能性を解き放つということだ。すぐれたリーダーシップに必要な条件の一つは、そのグループにいる人々に活力を与える能力である。人々の心を動かし、勇気づけ、活動に集中させる能力であり、一心不乱に取り組み、最大限の力を発揮してものごとを行う手助けをする能力である。

人々に活力を与えるというこの能力の重要な要素は、その人たちに対して伝えることだ。あなたがその人たちのすばらしさを信じている、ということを。その人たちにはほかの人に与えるべき何か大切なものがあることが、あなたにはわかっている、ということを。あなたが相手に対して持つ信頼感は、相手が自分自身に対して持つ信頼感を、ある程度決定する。」
『シンクロニシティ 未来をつくるリーダーシップ』
ジョセフ・ジャウォースキー

リーダーの最大の仕事は次のリーダーを育てることである。リーダーの後ろ姿をチーム全員が凝視している。

Wednesday, January 16, 2013

...

バランス感覚。冷静に状況を把握し、いっさいの感情を加えることなく、成果をとりにいく。すべてはゲーム。LIBERTE.


Sunday, January 13, 2013

MILES

睡眠時間が若干削られてきている。眠い。睡眠が少なくなるとストレス耐性が弱くなり感情が前面に出るようになるので困る。繊細さがなくなってしまっては仕事は勤まらない。

一時期ジャズにはまっていて、MILES DAVISのKIND OF BLUEのような人生を送りたいと思っていたことがあった。60年代のマイルスがトランペットを吹く時の眼。集中力を極限まで高め、これ以上ない繊細さでその瞬間のすべてを美に注いでいる。人生とはアートであり、アートとは絶え間ない実験であり、革新をやめたときにアートは死ぬ。全く同じ意味においてビジネスはアートであり、僕はアーティストたらなければならない。

Saturday, January 12, 2013

罪と罰

罪と罰の関係についてミラン・クンデラが面白いことを言っていた。ドストエフスキーの『罪と罰』に代表されるように、19世紀においては罪が先におこり、その罪をあがなうために人は自ら罰を求める。ラスコーリニコフは金貸しの老婆を殺すという罪を犯し、殺人という罪に耐えられずに自分から出頭しシベリアへと送られた。

ところが20世紀において、罪と罰の関係は逆転する。カフカのヨーゼフKは、いきなり罰をくだされ、その罰を正当化するために自ら罪を作り上げた。そしてそれは、21世紀においても継続しているのかもしれない。理不尽な罰をくだされた者は、ありもしなかった罪を自らに信じ込ませ、あたかも自分が犯罪者であったかのように自分自身を嫌悪していく。だがそもそも、罰なんてものが世の中にあるのか。幸不幸という判決を下す最終的な審級は絶対的な主体者である自己である。

Friday, January 11, 2013

MEMO

久々にジュンク堂に行き、まとめて本を買う。明日は朝が早いのでもう寝ます。

Thursday, January 10, 2013

ニーチェ

「だが、わたしの愛と希望にかけて、わたしはきみに懇願する。きみの魂のなかの英雄を投げ捨てるな!きみの最高の希望を神聖なものとして尊重せよ!このようにツァラトゥストラは語った。」 

自分自身をどのようにプロデュースしていくのか、という問題。慶應大学を中退後ICUで学士を取得、立教大学大学院を首席で卒業し、パリ大学の修士課程で一年間フランス文学、哲学を学び、帰国後いまの職業に就いた。TOEICは900点、高校時代に柔道二段を取得。かつてはそれを華々しいタイトルだと思っていたこともあったが、社会はそんなに甘くない。過去の経歴の使えるところだけを使って、よりいっそうのキャリアアップ、未来を自ら作り出していく。 

根本的なところで海外は好きだ。英語とフランス語と日本語の三か国語を使って思考をしている時がいちばんリラックスする。フランス語はすでにかなりの部分を忘れてしまっている。英語はときどき使っている。語学力をもう一度、少なくともかつてのレベルにまでは上げていきたいと思う。特に英語は、これから仕事でも使っていくから。 

バーも好き。酒ではフレンチコネクションがいちばん好き。ただし、柔らかい氷を出すようなバーには行かない。マスターの人柄で行きつけは決める。 

もう一度パリに住みたいか、と聞かれたら、イエスと答える。金持ちとして、という条件付きで。貧乏学生のパリ暮らしはもう十分。それから一人も嫌だ。一人で過ごすにはパリの冬は長過ぎる。 

パリでなくてもいい。もう一度海外に住みたい。いまの職場であればそれも可能だろう。一度きりの人生なんだから、やりたいようにやらせていただく。言語と哲学と海外と、酒と女と金に僕の人生が集約されるのであればそれで十分な気がする。

Wednesday, January 9, 2013

疲労

疲労のため今日はパス。もう寝ます。がっつりがっつり進んでいく。

Tuesday, January 8, 2013

ビジネス

ビジネスをしていくということは数値目標を立て、プロセスマネジメントをつくり、責任の所在を明らかにし、粛々と数を達成させていくこと。チームの団結力や個々人のモチベーションも、すべては数字に表れる。だからこそ常に数を中心におかなくてはならない。 

ビジネスに人間関係や感情はいらない。全チームメンバーに数を共有し、自分が責任を負う数をそれぞれが達成するように絶え間なく求め続けること、それがリーダーが行うべきこと。ただ、リーダーとメンバーという二者のみの間でのやりとりが発生したとたん、そこには指示を出す人間とやらされる人間の二項対立が生まれる。常に三者以上の介入のもとに問題の解決策を探ること。 

難しいのは、失敗を繰り返し、自信を失ってしまっているメンバー。関わらなければ確実にそこから数がもれる。できないことに対して怒りを覚えるのではなく、どうすれば数を生み出せる人間になれるのかをチーム全体で考え、求め続けること。 

数は本質的にはその仕事に対する情熱で決まる。いつまでたっても数を生み出せないままでいるのならば、そして徐々に仕事の被害者になっていくのならば、その人間は去るべきだ。居残り続けてもお互いにとって不幸なだけ。 

だからこそ、あなたはどうしてこの仕事をしているのか、あなたにとってこの場所とはいったいなんなのか、あなたはあなた自身の人生において何を大切にして生きているのか、ということを問い続けなければならない。ビジネスは最終的には哲学に行き着く。哲学でないビジネスはビジネスとは呼ばない。

Monday, January 7, 2013

AO

頭の中からフランス語が消えていく。アルジャーノンではないけれど、とても悲しい。ネットでフランス語のラジオを聞きながらこの文章を書いているが、日常的な会話ですらかなり集中しないと聞き取れない。大学で勉強したことが社会人としての人生において役に立たないとはいかがなものか。いや、フランス語が話せる、ということを自分の強みとして自分のキャリアを再構築していくべきなのかもしれない。

大学を卒業しても15%の人間が就職も進学もしない現代において、社会の中で食っていくためには自分で自分をプロデュースする能力が不可欠である。大学入試においてはそれがAOという形であらわれている。生きるということは永遠のAO入試である。それは自分の過去と現在と未来を一つの物語として語るということであり、ポール・リクールが言うところの物語的同一性(identite narratif)、つまり生そのものである。

言い換えれば人生を演劇として演じきるということであり、それは生存していくために僕が命をかけてパリで学んだことでもある。他人とつながらなければ直ちに死にいたる世界において、いかにして自分を魅力的な商品として提示できるか。それを入試というフィールドにおいて発見していくのがAOであり、同時にそれはリーダーという立場にいるいまの僕自身にも強く求められるものである。リーダーはチームのメンバーを生徒とするAOの講師である。

Sunday, January 6, 2013

徒然

ICUのベランダでひとり煙草をふかしていた午後、パリの中華街をぶらぶらと散歩していた冬の日、過去に点在するいくつもの自分が同じ一人の自分だと思うと、なんだか不思議な気がする。いまの自分も未来から見れば点在する過去の一点にすぎないのかもしれない。 

身体性の問題。人間の幸福は頭ではなく身体に宿る。常に身体を中心に考えること。自分の脳にだまされないこと。常人でいる限り幸福にはなれない。狂人であれ。

Saturday, January 5, 2013

メランコリー

過去というものは常に美化されるもので、例えばパリ留学時代、ルーブルの界隈をただただ当てもなくさまよい歩いていた日曜日の午後も、当時としては寒く退屈な一日でしかなかったにもかかわらず、いまとなっては異国の地でのどこかほろ苦く、しかし限りなく甘美な思い出となっている。過去を美化して現在と比較し、現在の情けなさを嘆くというのはあまりにもむなしい。一度も得たことのないものをあたかもかつて手にしたもののように思い込み、それを所持していない自分を悲しむということをアガンベンは「メランコリー」と呼んでいた(ような気がする、よく覚えていない)が、それではパリ時代に果たして僕は何をしていたというのだ。あるいは、いま僕に、まさにこの土地でいったい何ができるというのか。

「異邦性」というものがもつある種の気楽さと孤独にあこがれを抱くというのならば、どこにいようとも人生そのものを異邦人として全うすることもできる。ムルソーが実現したことであり、その意味で彼はスタヴローギンに通じる。世界は劇場であり人生は演劇だ。一人の俳優としてこの生をいかに演じきるのか、真の俳優になれた時、運命はおのずと向こうからやってくる。自分と世界との間に真空のすき間をつくること、世界が密着しすぎると息ができない、窒息死する。

パリに住み、マラケシュを放浪し、それは冒険だったのだろうか。すべての行動の責任が自分にかかっているという点において、だからこそそこには自由があったという点において、確かにそれは冒険だったのかもしれない。そうであるならば、この瞬間も冒険にできる。

Friday, January 4, 2013

cold day

Cold day. I have nothing to write. What I wanted to do when I was young was nothing but living my life, but what the hell is life? When I was young, when I was 20's, I lived in Paris, just for one year, I studied french literature at Paris university, so what. So what. Yes, like Miles, So what. Life? So what. 

I do not know what I want to do. This is a problem of my desire. I can not live. What I use when I work is just logic, and this is why my job is not art, but fundamentally life is art, the world is theatre, I am an actor.  

久々

明けましておめでとうございます。久しぶりの投稿。相変わらず仕事で忙しい。バランス感覚が重要。

ゴーギャンではないが、「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」、そんなことを考えていた年末年始。まとまった時間がとれないと自省にふけるということすらできない。

人生を他人に預けているとき、人は言葉を失う。僕はまだ言葉を失っていないのだろうか?これは果たして僕の、僕自身の人生なのだろうか。社会に自殺させられたものとしてのゴッホというアルトー的な解釈に対して、自分自身はそのような屈し方はしたくないと思う。「人間は自由である。しかし、自分が自由であるということを忘れたとき、もはや自由ではない」というようなことを誰かが言っていた。(誰だったのだろうか?)僕はまだ自由でいられるのか?

僕はやはり書き続けなければならない。最後に文章を、仕事用のものではなくて自分自身の、文章を書き終えてからかなりの時がたつ。多くのことが起きた。身近に死が迫り、現実がのしかかり、視野狭窄、社会が首を絞め、顔がこわばる。だからこそ、言葉によって、多少強引にでも自分自身の核にある自分をえぐり出さなければならない。

いまの僕の生には笑いとディオニソスが足りない。だからクリエイティビティが生まれない。だから仕事でもブレイクスルーが起きない。ラブレーのいうアゼラリストに成り下がってはいけない。ヘッセの『荒野のオオカミ』、最後に高らかに鳴り響くゲーテの笑いを思い出さなければならない。

MBAよりもMFAが重宝される時代、二十代の頃に人生のすべてを捧げた文学と哲学とアートを糞の肥やしにもしていない現状はなんなのか。「現代の俳優は叫ぶことを知らない」というアルトーの言葉、人生は演劇であるという意見には強く強く同意する、だからこそ僕は叫ばなくてはならない、のどが裂けて身体が深紅で覆われるまで。