Wednesday, March 31, 2010

フリーダ

DVDで『フリーダ』を見る。苦痛と愛と表現。色々な人生があるものだと思う。

「苦しみがなくなるようにとか、苦しみが少なくなるようにとか求めないこと。そうではなく、苦しみによって損なわれないようにと求めること」

シモーヌ・ヴェイユ

バッハのマタイ受難曲(リヒテル指揮)を聴いている。何かあるときには常に聞くことにしている曲。

アルノー・デプレシャンのKings and Queensで、亡くなった夫との間にできた子供を巡って奮闘する女性がしゃっくりをあげて泣きじゃくる場面がある。本当に辛くて本当に悲しくて本当にどうしようもないとき、人間はあんなふうに泣くんだ、と思って非常なインパクトを受けた。と同時に、それはとても正しいことのようにも思えた。

「本当に真剣な哲学的問題はひとつしかない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否かを判断すること、それこそが哲学の根本的な問題に答えるということだ。」

アルベール・カミュ

ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるニコライ・スタヴローギンは文学史上おそらく最も深刻な人物であり、個人的にも自分の存在の本質に関わる。彼にとって人生は完全なる遊びであり、そこにはいかなる価値もない。ニヒリズムに耐えられなくなったスタヴローギンは最後には自殺する。

自らの存在を死の中に投棄することで自由?威厳?良心?が到来する、と言ったのはハイデガーだっただろうか?リルケは胸の中に死を抱くことで誇りが生まれる、というようなことを言っていた。

自分の運命に出会う。

ヘッセの『荒野の狼』の最後に出てくるゲーテの笑いは、おそらくはニーチェの影響下から生じたものだろうが、それはフランス的精神にも通じるところがある。自分自身を笑い飛ばすこと、状況が深刻になればなるほど、その状況を嘲笑すること。アイロニーの精神が消えたところに、アゼラリスト(ラブレーが作り、クンデラが再発見した語。決して笑わない真面目な人々、という意味)が現れる。

フランス文学を起点として人生が大きく変わり、様々な人と出会い、いろいろな場所に行った。それだけでも感謝しなければならない。

ドイツ教養小説の偉大さ。ひとりの人間の人生は、ひとつの芸術作品である。

少し疲れている。のどに違和感を感じたので、念のため少し早めに風邪薬を服用。

Monday, March 29, 2010

文学

ユスナールの『ハドリアヌス帝の回想』を購入。久々の文学作品。結局ここに戻ってくる。文学は自分の故郷であり、これまで心血を注いできた場所。形は変われども、ここから離れてはいけないと思う。たぶん、ここから離れたら自分自身が大きく損なわれる。(すでに少しずつ損なわれ始めている。)

この五年間で最も濃かった時期はパリ留学時代で、その頃の自分を完全にフォローしていたのは一人しかいない。そのことに気付いて、そうかと思い、哀しくなる。

昔の生徒から勉強の相談メール。明日の午前中、自宅のそばで会うことに。彼にもがんばって欲しい。なんだか、こういうポジションが性に合っている。自分としてはいちばん楽。

近所のジュンク堂でいろいろと本を物色。アルトー後期集成の第三部がようやく出ていた。予定から何年遅れたんだろう。流石にもう買う気にはならない。フロベールの『感情教育』の新訳も出ていた。読みたい本としてはムージルの『特性のない男』。二十世紀の三大小説のひとつ(残りはプルーストとジョイス)で、未完の大作。

プロとして文学をやっていくのは辛いご時世だけど、文学そのものの力は衰えることはない。社会の一員として何を行おうとも、どんな大きな仕事をしようとも、最終的には自分は一人の人間としていかに生きるのか、という問題に突き当たる。自分の核を形成する哲学が必要であり、哲学を育成する知性が必要であり、知性を鍛錬する良質の刺激が必要である。知性も筋肉と同じで、訓練しないと衰えていく。哲学的内省の時間をいかにしてとるか、ということを考えていかないと、おそらく大きな後悔をすることになる。

十年の時を経て、ようやく文学のアマチュア(愛好者)に戻れたのかもしれない、と思う。

La vie

今後、日本語、英語、フランス語の三ヶ国語で書いていきます。基本的には日本語ですが。

La vie n’est pas si facile... Je commence à écrire en français. J’ai étudié la littérature française à M2 de l’université Paris, mais il n’y a pas d’occasions de parler en français au Japon, donc j’ai déjà oublié beaucoup de mots... Est-ce que je parle français ?

Je crois que le problème que je possède maintenant est la disparition de la motivation pour continuer à vivre. J’ai étudié la littérature pendant dix ans dans le monde académique, mais l'année dernière je l’ai quitté. Je commence à travailler (dans le domaine d’éducation). Je n’en suis pas sûr, cependant je sens que j’ai déjà perdu le but, autrement dit l’axe, ou peut-être la philosophie, non la dignité... qui a été essentielle pour être moi-même.

J’ai acheté aujourd’hui Mémoires d’Hadrien de Margurite Yourcenar. C’est un roman qu’un ami à moi français m’a recommandé quand j’étais à Paris. Selon lui, il existe tout dans cette livre. Je cherche vraiment, non aspire maintenant quelque chose... éthique ? je ne sais pas, qu’un jour j’ai absolument possédé et maintenant j’ai perdu. J’espère qu'il y en a un ici.

De temps en temps la mort m'attire, alors que je n’en pense pas toujours. Mais en tous cas je ne peux pas jouir la vie. Non, c’est pas vrai. Ce n’est qu’une timidité. Et le problème est que je ne trouve aucune source qui me fournit du pouvoir pour résister cette timidité. La corruption de l’étique, ou simplement le nihilisme. Je le déteste. Qu’est-ce que je peux faire, alors ?

La mort, lamor, l’amour... Une confession odicieuse... Pourquoi est-ce que je continue à vivre ? Je veux voir encore une fois ma dernière amie ? Le problème est simplement la solitude ? Je ne suis pas bonze. Transcendance de désirs ? Non, non, non... Merde !!!

OK. Je comprends. Comme le dit Lacan, à la fin d’une série de désirs, il n’existe que la mort. Je veux mourir. C’est tout. Je suis seul et j’ai peur donc je veux mourir. C’est tout. Parler de la mort facilement est une attitude très orgueil, mais j’en ai marre. Je veux mourir. AIDE-MOI!!!

Friday, March 26, 2010

ニーチェ

なんだかやたらと忙しい一週間。引越しやら家具の組み立てやら、日用品を買ったり家電を買いなおしたり、さらに講演会にも行ったし、インタビュー記事の校正や人との食事もあった(大学の後輩と知り合えて面白かったけど)。ここらで少し積極的休養をとらないと後に響きそう。

「人間は自由である。しかし自らを自由と信じない限り、もはや自由ではない」というようなことをカサノヴァが言っていた。

かつて、いかにカッコよくハッピーに生きるか、ということが自分のテーマだったことがある。そこら辺の基本は忘れてはいけないと思う。

いま、ニーチェの本が売れているらしい。しかし、ニーチェの中に何らかの答えを見いだそうとするならば、それはニーチェ自身を裏切ることとなる。ニーチェが言っているのは、現実を直視し、徹底的に自分の頭で考えること。彼は読者が自分の弟子になることを強く否定する。

二十歳くらいでニーチェと出会い、そこからずっとニーチェは私のそばにあった。現実を見つめ、たとえどんな状況にいようとも気高くあること、没落しようとも自らの道を進むこと、従うべき指針はみずからの手で作ること、世の中の善悪、道徳は歴史の中で形成された人為的な価値観であり、決して絶対的なものではないこと、そういったところに大きな影響を受けてきた。

ニーチェ曰く、人は誇り高い貴族でなければならない。しかし貴族の証しは過去の系譜によって決定されるのではない。現代の貴族は、みずからが作るみずからの未来によってその称号を手にする。自分がこれから成し遂げる行動、何を考え、何を行うか、それが自分自身を貴族へと変える。

ニーチェのツァラトゥストラの中に、こんなシーンがある。一匹の龍と一頭の獅子が対面している。龍のうろこには数千年もの歴史を背負った「汝成すべし(お前は~をしなければならない)」が刻み込まれている。対して獅子は「我欲す(私は~をしたい)」と吼えかかる。

龍に迎合するのではなく、獅子として生きること、そして現在の己を超越すること。いまの日本に、「我欲す」と吼えられる獅子がどれほどいるのだろうか?

人間は誰でも、獅子として生きる自由がある。獅子として吼えることができないのならば、あるいは吼えることすら忘れているのだとしたら、それは幻想の龍に知らないうちに絡めとられているからである。まずは、自分がいま一番したいことをやってみるといい。小さな欲望を叶えてあげることで、より大きな欲望が目を覚ます。ラカンが言うように、欲望に終わりはないのかもしれない。しかし欲望は生きるモチベーションとなる。

Tuesday, March 23, 2010

引越し二日目

足りないものがちょこちょこ出てくるので、落ち着くまでもう少し時間がかかりそう。(フォーク買うの忘れたから、スパゲティーを箸で食べた。)

今日は夕方からレジス・ドゥブレの講演会へ。「境界とはなにか」みたいなことがテーマだったが、正直言ってあまり面白くなかった。いったい何がしたいのだろう?という感じ。

帰宅途中、JRが完全運休に。15分で帰れるところが40分もかかる。なんだかぐったり。

哲学者というのも、なかなか難しい職業だな、と思う。「哲学とは何か?いったい世の中の役に立っているのだろうか?」というようなことを考え続けつつ、同時に飯を食っていくためにどこかで妥協しなければならないから。顧客の姿が見えにくいし、誰のためにやっているのかも分かりにくい。(ということは、金にもなりにくい。)少なくとも、僕には耐えられなかった。

日本においては、自分自身がハッピーになることをとことん目指していくことが、結果的にはみんなのハッピーにつながるような気がする。

そういえば開花宣言。花見がしたい。しばらく会ってない友達とかにも会ってみたい。

慣れない部屋にひとり。やはりJAVELのことを思い出す。思えばよくもまあ単身でパリに行ったものだ。

それからいくつか情報。いま調べたら、近所のスーパーMは24時間営業。すごく便利。(フランスじゃ考えられない。)あとRadikoはかなり快適。これでラジオ端末を買わなくてすむ。(Inter FMとJ-WAVEが聞ければラジオは十分。)
リンク:radiko

明日買うもの:
・洗剤
・まな板
・ナイフ
・フォーク
・スプーン
・シャワーカーテン
・ボディーシャンプー
・スピーカーの延長ケーブル
・パン

仕事が本格的に始まる前にいろいろさっさと済ませなければ。

こないだのフランコフォニーフェスティバル、映画監督のアルノー・デプレシャンと黒沢清との対談から。(まずは黒沢清のコメント。)近年のデプレシャンの映画は憎しみをテーマとして取り扱っている。普通、憎しみは殺人事件などといった形で表出する。憎しみによってナイフを、あるいはピストルを握り、憎まれた人は殺されることによって画面から消えていく。しかしデプレシャンの映画の場合、たとえ憎しみが充満したとしても憎しみによって人は死なない。憎しみを抱える側も、憎まれた側も、ともにそれぞれの感情を胸に抱きながら映画の最後まで画面上に残り続ける。

デプレシャン曰く、たしかに憎しみは卑小な感情だが、憎しみによって登場人物に深みを与えることもできる。愛が人を偉大にするのが通常の手法。しかし、憎しみによっても人間を掘り下げることはできる。

流石に少し疲れたので、ワインを飲んでいる。最寄り駅から神楽坂まで10分くらい、行きつけの店がグッと近くなる。これでマスターにもちょこちょこ会える。

このブログを見ている友達(数人を除いて誰が見てるか忘れた)、人生の真髄は遊ぶこと(by ニーチェ)、神楽坂で遊びましょう!(いまの時期は夜桜がきれいなはず。)

ネットがつながる

ようやくネットの工事が終わりました。こんどは光。かなりサクサク。

今日はこれから、日仏会館でレジス・ドゥブレの講演会。

引越し

引っ越しました。もうすぐネットの工事が来るので、それを待ってるところ。

新しく買った机を組み立てたり、荷物の搬送をしたり、ごそっと溜まってた書類を仕分けしたり、途中でフランスフェスティバルもあったし、そんなこんなでバタバタしてます。

場所は都心。立地的にはこれまでよりもかなり便利に。

パリに引っ越したばかりの頃を思い出した。

「寂しさとあきらめの混じり合ったこの感情を悲しみと名付けていいのか、私は迷う」みたいなことをサガンが言ってた。

Thursday, March 18, 2010

MEMO

事務作業で忙殺。

Tuesday, March 16, 2010

火鍋

友達と歌舞伎町の小肥羊で食事。中国火鍋というのを初めて食べました。漢方がたくさん入ってていかにも体に良さそうな感じ。しかもなかなか旨かった。羊の肉、今月はこれで二回目です。
リンク:小肥羊

インタビューの依頼がきたので、その準備をしたり、あとは事務的なこともいくつか。明日はそんな感じ。

関西旅行雑感

いろいろ、急速に忙しくなってきた。とりあえず関西旅行雑感。

友達と待ち合わせをして、初日は龍安寺と金閣寺へ。庭園のデザインの洗練さに感動。どこを見ても、すべてがかっちりと絵になる。フランスのヴェルサイユも面白かったけど、京都の庭園はさらにかっこいい。こういうのはいくら写真で見ても分からない。その場に行かなければ体験できない究極のアート。参った。



夜は道頓堀で串カツ。観光客だとなかなか入りにくいような店で、初めて串カツを食べました。安いしウマイ。しみじみ満足。

写真はMySpaceにアップしました。
リンク:MySpace

Saturday, March 13, 2010

京都・大阪

今朝、関西旅行から帰ってきました。いやー、面白かった!地元の友達にいろいろと案内してもらい、龍安寺に行ったり、金閣寺を見たり。道頓堀にも行ったし、串カツも食べたし、とにかく大満足です。深夜バス、一泊四日という良く分からないスケジュールだったけど、その分ゆっくりと色々まわれました。詳細はまた後日。友達に感謝です。

今日は昼から渋谷で人とランチ。後は引越しの見積もりを頼んだり。いくつかの業者からメールで見積もりが送られてきたけど、最終的には携帯に直接電話をかけてきたところに決めました。ユーザーとして、電話営業の威力を感じてちょっと感動。顧客サイドとしては、こちらからコンタクトをとらなくていい、その場で細かいところまで詰められる、値引き交渉もできる、というところがありがたい。電話営業も侮りがたい、ということを初めて感じました。

Wednesday, March 10, 2010

関西旅行

今日、関西に旅行に行きます。そこで、簡単な予習。行っときたい所をいくつかピックアップ。

1. 龍安寺(8:00-17:00、500円、京都駅から立命館大学前下車[50番] 徒歩7分)
2. 金閣寺(9:00-17:00、400円、龍安寺から徒歩1.7km)
3.清水寺(6:00-18:00、400円、京都駅から五条坂下車[206,100番] 徒歩10分)
4. 道頓堀(グリコの看板のあたり)

大体こんな感じです。あとは友達と会ったりもするので、割りとのんびりと、気楽に楽しく。あ、カメラも持っていこう。

Tuesday, March 9, 2010

誕生会

友達の誕生会で、羊を食べに代々木へ。羊肉専門レストラン、「ひつじや」。この店、最高です。羊のたたきや羊ステーキ、それからクスクスを注文したのですが、どれもおいしかった。(クスクスはモロッコの屋台で食べた味そっくり、本格的です。)また行こうと思う。
リンク:ひつじや

その後、飯田橋に移動していつもの店へ。ここも最高の店です。友達つれて、これからも行こう。(ここは仲のいい友達と行きたい店。リンクは載せません。)

それから、3/21は飯田橋の日仏学院でフランコフォニー・フェスティバル。アルノー・デプレシャンやレジス・ドゥブレといった、超大物が来日します。フランスに興味のある人は要チェック!
リンク:フランコフォニー・フェスティバル

Friday, March 5, 2010

Radio Spider

J-WaveのRadio SpiderをUstreamで見ている(聞いている)。毎回テーマを設けて、パーソナリティーのサッシャがゲストから話をひきだすインタビュー番組。今回のテーマは「音楽にデザインは必要か?」ゲストはアートディレクターのヒロ杉山氏。

曲がかかっている間の談笑の映像をライブで見られるのが、なかなか面白い。隙間の時間に談笑して場の雰囲気を和らげる能力、インタビューをする上で非常に重要なんだろう。それからインタビューでは、相手のことを十分調べた上で、相手が何を話したがっているか、どういう切り口で切り込んだら気持ちよく話してもらえるか、ということを考えるのも大切。

*J-Waveは東京のラジオステーション。Radio SpiderはJ-Waveの番組。Twitterと連動して視聴者と意見交換をしながら番組が進行していく。番組情報はMySpaceで発信。Ustreamは動画投稿サイト。YouTubeと違い、ライブ放送を発信することができる。(リンク:Ustream内Radio Spider

それから、先週のJ-Waveの放送(別番組)でショーン・K氏が言っていた印象的な言葉。曰く、「仕事をしていく上で8割は自分が仕事ができる環境作り、2割が自分の仕事。

近況。iPhoneのカバーを変えた。身近にあるちょっとした小物にお金をかけることで、日常がグッと豊かに。ネイルアートに支出する女性の気持ちがわかるような気がする。(リンク

あと来週、関西方面に旅行します。楽しみ!

Wednesday, March 3, 2010

『希望を捨てる勇気』

池田信夫の『希望を捨てる勇気』を読む。著者が一貫して訴えるのは、労働市場の流動化の重要性。以下、面白かったところを簡単にまとめる。

1. 日本では正社員を解雇するのが非常に難しい。そのため新卒を採用せず、すぐに解雇できる非正社員を雇うことでバッファを厚くし、既存正社員の既得権を守ろうとする。この問題を解決するには、労働市場の流動化が不可欠。

2. 終身雇用の時代には、若い頃は安月給で猛烈に働き、年をとってからその分を取りかえす(高収入や天下り)、というモデルが成り立った。しかし大企業ですら40年もつか分からない現在、がむしゃらに働ききった直後に首を切られることだってありうる。もはや終身雇用は成り立たない。実際、東大の人気職種は、かつては役所だったが、いまでは若い頃から高い給与が得られる外資である。

3. 終身雇用では、若い頃は会社に貯蓄し、年をとってから元を取り返すことが前提となる。そのため途中で会社を辞めると、非常に大きな損失を被ることになる。損をしないためにも、ひとつの組織に同調し続け、着実に出世していくことが求められるので、日本のサラリーマンは心理的に大きな重圧を抱えることになる。アメリカの研究者は、次のような調査結果を報告している。

・この会社をよくするために、言われたより良く働く:日54.3%、米74.3%
・私の価値観はこの会社の価値観とまったく同じだ:日19.3%、米41.5%
・いま知っていることを入社時に知っていたら、もう一度この会社を選ぶ:日23.3%、米69.1%

<感想>
納得できる部分が多かった。同年代の僕の友達でも、かつての終身雇用モデルでキャリアプランを立てている人なんてひとりもいない。

ここに取り上げた部分は、主に大企業に関する分析。中小やベンチャーだと、経営者の考えももう少しフレキシブルだと思う。実際、自分の会社を踏み台にして独立を促すような会社も存在する。(僕もそういう会社の社長と話したが、彼も労働市場の流動化の重要性を力説していた。)

年間自殺者数が三万人を越える現在、ストレスを抱えながら同じ組織に一生いようとするよりも、転職や起業できるだけの力を身につけ、どんな状況になっても自分で飯を食っていけるように努力する方がリスクヘッジとしては賢い。それにその方が人生も楽しい。

むかし作ったサイト

むかし作っていたサイトの画像をアップします。ブログなんてものが登場する遥か前、ネット上で自分の意見を発表するために、ひとは自分でサイトを構築しなければならなかった。僕もHTMLを一生懸命に覚え、目を充血させながらタグを打ち込んでいました。

1. 「exile」時代(2001年~2004年くらい?)




ピーター・リンドバーグの写真と、ネットで見つけたライセンスフリーの写真を加工。画面をテーブルで区切り、それぞれにフレームを設定。黒い帯の部分にある目次をクリックすると、写真部分がテキストページに変換されるような仕掛けです。

2. 「alter ego」時代(2004年~2008年くらい?)



ライセンスフリーの写真を加工し、ページの右端に背景として貼り付けたもの。ちなみに上記2つのサイト、両方ともフロントページは別にあり、フロントページのEnterボタンをクリックすると、サイズ指定の新しいウィンドウがポップアップされるようになっていました。(ここだけJava使用。)

あの頃は、自分のサイトをPRするためのポータルサイトというものがいくつもあって、そういうサイトに自分のサイトを登録してアクセス数を稼いでいた。僕は、アジア人による英語エッセイを集めたポータルサイト、RICE BOWL JOURNALに登録していていました。RBJ経由で遊びに来てくれた海外の読者とmailで意見交換をしたり、なかなか楽しかった。

あと、一度オーストラリアのヘラルドトリビューンのサイトで紹介されたこともあり、英語とネットがあれば世界とつながれるんだ、ということに感動した覚えもあります。

日本語サイトだと「侍魂」なんかが伝説となっていた時代。個人によるネット表現の草創期、なんだか懐かしい。

Monday, March 1, 2010

アンゲロプロス

早稲田松竹で公開中のテオ・アンゲロプロス、「シテール島への船出」と「こうのとり、たちずさんで」を見てきました。アンゲロプロスは僕がもっとも好きなギリシアの監督。「シテール島への船出」は以前ビデオで見たことがあったけれど、「こうのとり、たちずさんで」は初見。

どちらも国境や難民をテーマとした物語。ひさびさに重厚な映画を観ました。二本合わせて約5時間は、流石にちょっと疲れたけど。

上映は今週末まで。ちなみに、アンゲロプロスのお勧めは「霧の中の風景」と「ユリシーズの瞳」。特に前者は恐ろしく哀しくて美しい物語です。

リンク:
アンゲロプロス作品一覧
早稲田松竹