Sunday, January 31, 2010

TOEIC

TOEICを受けてきました。試験なんて久しぶり。想像以上に疲れた。とりあえず、実力は出せたと思うのでいいけれど。リーディングは15分前に解き終わり、リスニングはいくつか微妙な部分があった。目標は900点。これまでに解いてきた模試(『新TOEICテスト「直前」模試3回分』、アルク社)の結果、それから今日の手ごたえを合わせるに、予想点数は875~930位。

最近、時間があるときはMySpaceのブログに転記した「パリ留学記」ベスト版の校正をしている。久しぶりにパリ時代の記事を読み返し、あんなこともあったな、と思い返す日々。特に懐かしさは感じないが。

フランスで色々なことに気付かされた。ただそこで気付いたことは、それだけでは何の役にも立たない。身体に染み込ませ、自分の武器として使えるようにしなくてはならない。帰国して、世間というものに色々とぶつかって、自分のエッジや売り出し方を必死で考えた。フランスでの知が血となるには、そのプロセスが必要だったんだと思う。結局、自分が身体をはって身につけたものでないと使い物にならない。

Thursday, January 28, 2010

個人メディア

このブログ、MySpace、Twitterと、三つの個人メディアをもっている。どういう風に使い分けようか、と思っていたのだが、ようやく方針が決まった。

まずはTwitter。これは、ジャンルを問わずちょっとしたメモとして。iPhoneからも投稿できるので、そのときどきにふと思いついたことを簡単に残しておくことができる。

次にMySpace。これはオンライン上の名刺みたいなもの。現実世界で知り合った人に教えることで、相手の興味を引くことができるかもしれない。自分という商品を売り出すための広告という位置付けなので、ある程度の統一感、そして内容の充実が求められる。

例えば、MySpaceに付属したブログにはパリ留学記のベスト版を掲載。自分のエッジを際立たせ、読者の関心を呼び起こす仕掛けをつくる。さらにTwitterをMySpaceに同期。パリ留学終了後、現在の僕をモニターできるようにする。

最後にこのブログ。ここは、何でもありのいちばん自由な場所。MySpaceからもTwitterからもリンクを貼っていない独立した場所なので、好きなことを気楽に書くことができる。

ところでMySpace、プロフィールを英語で書いただけなのに、さっそく海外からコンタクトがありました。このレスポンスの早さが英語のいいところ。ポテンシャル読者の数が違うということだろうか。

Sunday, January 24, 2010

MySpace

MySpaceを作りました。今日の午前中はレイアウトを変えたり、パーツをいじったり。これで自分メディアが3つ、1)このブログ、2)Twitter、3)MySpaceになった。

それぞれの使い分けはこんな感じ。まずこのブログは、日本語を使ってちょっとまとまった文章を書くため。次にTwitterはメモ、ちょっとしたお知らせとして。最後にMySpaceは英語、フランス語用。海外の読者を念頭に情報を発信する。

このブログも、アクセスはそれなりに上がっているのだが、誰が見に来てくれているのか全く分からない。日本語で書いているのに、なぜかコメント欄の投稿は英語とフランス語だし。むかし、自分でHTMLを打って日本語・英語・フランス語のサイトを作っていたことがある。レスポンスは圧倒的に海外の方が良かった。MySpaceを通して、また海外の読者と交流できたら楽しいかも、と思う。

さて、これから仕事だ。そろそろ準備しないと。

(MySpace: http://www.myspace.com/tadafumi)

Saturday, January 23, 2010

ネットと世界貢献

MTVのサイト上で「Hope for Haiti Now」を視聴。ハイチ支援のためにアメリカで放送されているプログラムを、日本にいながらにしてリアルタイムで見られることに感動。

ネットの強さというのは、ここらへんにあるんだと思う。例えば今回のハイチ地震、Twitterで現地にいるアンカーウーマンの「つぶやき」をチェックし、MTV.comでアメリカのハイチ支援プログラムを視聴し、オンラインでユニセフに募金し、それをTwitterで報告する。遠いところで起きている事件をリアルタイムにフォローし、瞬時にアクションを起こす、それを可能にしてくれるのがネットの魅力だと思う。

「地球市民として具体的に何を考え、どんな行動をとっているか、という質問に答えられることこそが21世紀の教養人の資質である」、ということを大前研一が言っていた。(『「知の衰退」からいかに脱出するか?』)たしかに一理ある。ビル・ゲイツは慈善財団を設立し、ウォーレン・バフェットは資産の大部分を寄付した。日本でも、「社会起業家」という言葉はすでに一般的である。ビジネスを通して社会をより良くしていこう、と考えている人も数多い。

Twitterも、そういった文脈の中で捉えてみると非常に面白い。例えばCNNのアンカーウーマン、Amanpour氏のTwitterをフォローに入れておくと、日本のメディアでは絶対に流れないような情報を随時、確認することができる。もちろん英語が読めるのが大前提だが、最大140字ならばそれほどストレスもかからないだろう。それに、「自分も世界とつながっている、世界に対して直接アクションを起こし、同じ時間を生きる人々の役に立つことができる」と考えることで、自分自身が救われるということもあるのではないか。

ハイチ地震

CNNのLarry King LiveをiPhoneのPodCastで視聴。このところの話題はずっとハイチ関連。1月19日の放送では、ユニセフの職員やアメリカの有名人(スーザン・サランドン、スヌープ・ドッグ etc.)が番組に参加し、ハイチの現状や緊急募金を呼びかけていた。

アメリカのメディアによれば、いまのハイチの最大の問題は水。国土の46%でクリーンな水が確保できず、出所の分からない怪しげな水が高値で売られている状況にある。番組では、国連の職員が泥水をクリーンにする化学物質を紹介。泥水にその粉を入れ、しばらく置いておけば有害物質がすべて固まる。あとはタオルやシャツで水をこせば、飲み水として使用できる。費用は水1リットルあたり1セント。

番組は、今回の地震におけるTwitterの役割も紹介している。Twitterをはじめとするネットを駆使することで、自分もハイチのために積極的に行動できる、というもの。僕もユニセフ経由でさっそくハイチに募金をしました。

と、ここまで書いてTwitterのハイチ関連のページをサーチしてみる。MTVの「Hope for Haiti」が話題になっている。何だろうと思ってMTVを訪れてみたところ、なんとネット上でハイチ支援の番組を生放送している!司会はモーガン・フリーマン、スティーブン・スピルバーグが電話で視聴者と話し、マドンナがハイチのために歌い、クリントン元大統領が募金を呼びかけている。すごい!

リンク:MTV.com

<追記>
MTV JAPAN、CNNj、ナショナルジオグラフィックでも「Hope for Haiti Now」が放送されるようです。
日時:1/24 [日] 13:30 -, 1/25 [月] 21:00 -

それから「Hope for Haiti Now」で放送されたライブのCDが出ます。出演アーティストはマドンナ、ジャスティン・ティンバレイク、ボノ、ワイクリフ、Jay-Z etc. 非常に豪華。購入はiTunes.com/Haitiから、購入金は全額ハイチ支援へ回されるようです。

Thursday, January 21, 2010

Twitter

Twitter、再開しました。むかし一度作って、その時はいまいち面白さが分からなかったけれど、再挑戦です。iPhone経由でもどんどん投稿できるということで、今回は長続きしそう。

さっそく著名人を何人かフォローしてみる。オノ・ヨーコとか加藤登紀子さんとか。これ、どれだけ多くの人をフォローするか、ということで面白さが決まる気がする。日本語、英語、フランス語を問わずにいろいろフォローしてみよう。

Twitterリンク先:tadafumiaparis

Wednesday, January 20, 2010

ローリン・ヒル

ローリン・ヒルのMISEDUCATIONを繰り返し聴いている、久しぶりに。すごくいいよな、と思う。

飯田橋のラグタイムというジャズ喫茶で友達とお茶をしていて、店に流れるジャズを時々ポケーッと聴いていたのだが、ジャズもいいんだよな。吉祥寺のSOMETIMEにも久しく行っていない。

下はこないだ見つけたビデオ。タイトルはフランス語で「シルエットのそばで」。BGMは「ユリシーズの瞳」のサントラから。なかなか面白い。

Tuesday, January 19, 2010

スピノザ

『バガボンド』の最新刊を購入。相変わらず面白い。世界観がますますスピノザに近づいてきている。人間は万物である天の一部にすぎない。だから「私」というものにそれほどこだわる必要もない。あらゆる物事はあらかじめ決定されていて、それゆえに人間は圧倒的に自由である、というあたりなんかは、まさにスピノザ。

ということで、上野修の『スピノザの世界』(講談社現代新書)を読み直す。スピノザ、オリジナルはあまりにも難しいので、まずは入門書から。

パリ時代、スピノザの講演会に出席する直前にも、たしかこの本を読み返した。講演会の内容はこんな感じだった。19世紀の終わりから20世紀にかけて、ニーチェ、マルクス、フロイトの三人によって主体は解体された。しかし、すでに17世紀に主体の解体を唱えた人物がいた。それがスピノザである。彼は人間を万物である神の属性と捉え、デカルト的な「私」に対するアンチテーゼを打ち出した。

自分の未来がすべて現在の自分にかかっていると思うと、この一瞬があまりにも重くなる。物事はあらかじめ決定されている、未来はすでに決まっている、と考えることで現在の自分が限りなく自由になる、自分自身であることに集中できる、ということはあると思う。

「石がこの瞬間に全身全霊で石であるように、樹が全身全霊で樹であるように、全身全霊でただ斬ることの裡(うち)に在る、その点において儂(わし)以上の人間を初めて見た!!」
『バガボンド』32巻

有名な経営者(松下幸之助だったかな?)が、重要な局面では「それが自然であるかどうか」を基準として決定を下すと良い、と書いていた。「天」や「神」という言葉を出すと大げさになるが、物事の自然なあり様に耳をすます、ということは大切だと思う。

そういえば、かつて大江健三郎が断筆宣言をしたときに、「これからはスピノザだけを読んで生きて行きたい」というようなことを言っていた。僕にとってもスピノザは気になる存在であり続けそう。

Sunday, January 17, 2010

ハンドアウト

カフェにて、今週ひらくガイダンスの準備。全体の構成を考え、ハンドアウトに起こし、プレゼンのシミュレーションをする。なんだか、こういうことをやっているときがいちばん楽しい。ロジカルにアウトプットをする、という作業が純粋に好きなんだろうな、と思う。

今年のセンター試験の問題をチェック。国語の一問目の難しさが異常。テキストは岩井克人の「資本主義と『人間』」。いきなりフロイトを出してきて、『ヴェニスの商人』を軸にしながら資本主義について論考するなんて、どれだけの高校生が理解できたのだろうか。

今月末にTOEICを受けるので、『新TOEICテスト「直前」模試3回分』という問題集を解いてみる。制限時間ありで自己採点875点、制限時間なしだと960点。復習をしっかりとしてテクニックを身につければ、本番、950オーバーも狙えるかもしれない。

ここから二週間、また忙しくなる。TOEICと簿記二級の対策もこなさなければならない。自分との駆け引きが勝負の鍵。

打ち上げ

後輩たちの論文提出の打ち上げに参加(というか主催)。学生との食事は久々。頭がすでに仕事仕様にモデルチェンジしているので、ギャップを感じる。僕の論文提出が二年前、あれからまだ二年しか経っていないなんて、時間の濃度が濃すぎる。

積年の疲労+年末年始の激務により内臓がボロボロ。医者から薬をもらう。一ヶ月くらいで元気になるとのこと。ただ、疲労を感情凍結でやり過ごす期間が長かったので、元気というのがどういうものだかもう忘れた。

Wednesday, January 13, 2010

ラジオ

夕方、一時間ほど時間が空いたので東京都現代美術館で開催されている「レベッカ・ホルン展」に行った。現代アートの展覧会に行くのも久々。うーん、面白いことは面白いけど、ただそれだけ。特に感興はない。表象文化系の論文の題材としてはもってこいなのかもしれないけれど、感動という点からするとイマイチ。

移動時間、iPhoneでFrance Culture(フランスのラジオ局)を聞く。行きの電車の内容は、アメリカの死刑制度を題材に、宗教的信仰と魂の信仰の違いに関してオペラの舞台監督が語る、というもの。帰りの電車は、フランス映画の海外市場進出に関するシンポジウム。

このところ、移動時間を使ってアメリカのCNNとABC、イギリスのBBC、フランスのRadio FranceとFrance Cultureを代わる代わる聞いている。そこで発見したこと。ビジネスや政治といった、非常に現実的でシリアスな問題を語るのには英語、アートや人生といった、極度にプライベートなことを語るのにはフランス語がよく似合う。

Monday, January 11, 2010

徒然

朝から大学で勉強会。午後から湯島天神へ、ことし受験の生徒のためにお守りを買う。睡眠不足のため少々フラフラ。iPhoneで久々にフランス語のラジオを聞きつつ帰宅、そのまま倒れるように眠る。

大学のエレベーターホールで教授に出会う。新年の挨拶。やはり、もはや利害関係のない間がらなので非常に気楽、立ち話をして気持ちよく分かれる。ようやくいまの大学が母校になってきた。

それにしても、久々に訪れた院生室が汚い。僕がいた頃は、毎朝早めに到着してぞうきんがけをしていたのに、と思わないでもないが、そういう小舅的なことは言わない。ぞうきんで机とキーボードを磨いてから帰る。ただ、「誰の仕事というわけではないけれど、誰かがやらなければならないこと」(協同スペースの清掃とか)をやる人が一定数いないと、組織は荒れる。

Sunday, January 10, 2010

「ユリシーズの瞳」

好きな映画を羅列してみる。アメリカ系で言うと70年代のアル・パチーノ、「The Godfather」「Dog Day Afternoon」「Serpico」あたり。特に「Dog Day Afternoon」で、ゲイの恋人に電話をした直後、疲れ切ったソニーが手で顔を覆いながら一点を見つめるシーン、それから「Serpico」のラストシーン、病院のベッドでセルピコが泣くシーンが好き。ただ、最近はあまり見たいとも思わない。

ヨーロッパ系だとテオ・アンゲロブロスの「ユリシーズの瞳」、アンドレイ・タルコフスキーの「ノスタルジア」、フェデリコ・フェリーニの「8 1/2」あたり。こちらは、いまでも常に手元に置いておきたい作品たち。

この三本を貫く特徴。まず、主人公が中年男性。次に、過去と現在の交差、あるいは幻想による現実の侵食。そして、非日常、あるいは旅。最後に、どこかしら死が付きまとう。

特に「ユリシーズの瞳」は圧倒的。この映画を見続けていれば、それほど大きく道を外れることはないような気さえする。



映画ではないが、アントニオ・タブッキの『レクイエム』という小説に、非常に愛着を感じている。そう言えばこの小説も、やはり上記3本の映画の特徴を備えている。憧れの大人を提示してくれる、希少な作品たち。

Saturday, January 9, 2010

JAVEL

今日はオフ。明日は仕事、明後日は勉強会、その他、試験勉強等々。一日くらい完全オフを取らないと疲れる。

アルトーの論文を読んでいるせいか、社会に生きていく上で避けることのできないドロドロが、皮膚を通して内臓を侵しているような感覚がする。ヘドロのようなものに自分の体が汚されている感じ。

ただある人いわく、僕の場合どこかで常に一歩引いているので、ドロドロの環境でも割り切って仕事を遂行していくことができるだろうとのこと。一週間の内に二人から同じようなことを言われた。

おそらく、自分が微妙に分裂しているからだと思う。観察主体としての自分と、観察対象としての自分に「私」が分裂している。観察主体としての自分は舞台を見つめる観客で、観察対象としての自分は与えられた役を演じる役者。二つの「私」の間で人生は演劇に変わり、生は消える。


いまでももう一人の自分がパリに住んでいるような気がする。ドリアン・グレイではないけれど、東京の自分がどうなってしまっても、今日もJavelの交叉点を渡る自分がクリーンでいてくれさえしたらそれでいいかな、という気がする。

Thursday, January 7, 2010

没落していく者

ニーチェの『ツァラトゥストラ』にドップリとはまっていた時期がある。向上するために挑み続け、結果として破滅するならば、それはそれで美しいことなんだ、というメッセージに惹かれていたんだと思う。ツァラトゥストラ(=ニーチェ)は言う。

「わたしは愛する、没落していく者としてでなくては、生きるすべを知らない者たちを。というのは、彼らは向こうへ渡って行く者であるから。」(ちくま学芸文庫版)

「向こうへ渡って行」こう、という情熱はすでになくなった。しかし、「没落していく者」という感覚は分かるような気がする。

「すごい勢いで仕事をこなすわりには、あんまり情熱っていうのを感じないのよね。根本のところですごく冷めてる気がする」、ということを友達から言われた。ひょっとしたらニヒリストなのではないか、という結論に落ち着いたのだが、この人物評、僕の指導教授にそのまま送りたい。

ニーチェと現象学をアカデミックに勉強すると、どうしても世界との間に距離ができてしまう。根っこの部分でどこか人生を諦めてしまう。現代思想系の研究者たちは、だから何となく似ている。

すさまじい仕事量を自分自身に課して、ふらふらで倒れそうになりながらも、どこかでそれを楽しんでいる感覚。不健康なナルシズムと言ったらそれまでだが、そういうのも分かる。

Wednesday, January 6, 2010

タラユマラ

Antoine d'Agataという写真家がいる。マルセイユに生まれ、世界中を放浪した後、ニューヨークで写真家になったアーティスト。現在はマグナムの準会員。身体をテーマにした作品は、フランシス・ベーコンの絵画のような印象もあり、同時になぜかペドロ・コスタのことも思い起こさせる。

Hambourg, 2000

彼が2005年に発表した「MANIFESTE」は、アントナン・アルトーの『タラユマラ』の次の一節を引用している。


C'est comme le squelette du devant qui revient, m'ont dit les Tarahumaras, du RITE SOMBRE; LA NUIT QUI MARCHE SUR LA NUIT.

「それはまるで、帰還する骸骨のようなもの」とタラユマラ族は私に言った。「闇の儀式、夜の上を歩む夜からの帰還・・・」


日本の文学界でアルトーの話をすると、たいていデリダやドゥルーズと絡めた上で、言語表象の臨界や身体性といった方向に話題が逸れていく。フランスのインテリとアルトーの話をすると、「あぁ、若い頃はよく読んだよ。彼のポエジーとパッションは最高だよね」という反応が返ってくる。アルトーを、アルトーそのものとして捉えているのである。

作品のポエジーを殺してしまうような分析には魅力を感じない。ポエジーとは、深夜のバーで酒を飲んでいるときに感じる焦燥感とかすかな甘みであり、文学とはその感度を極限まで高めることである。深夜のマレ地区でブルガリア人とビールを飲んでいたとき、フッと世界が遊離して見えた。現実の間隙に指を差し込む、そういった感性を研ぎ澄ますこと。

リンク : Antoine d'Agata

Tuesday, January 5, 2010

戦略的諦観

先日、iPhoneでCNNのLarry King Showを見ていたら、アメリカの対テロ対策作戦本部長だかなんだかが、面白いことを言っていた。曰く、「テロとの戦いがすぐに終わることはない。考えても見てほしい。あの冷戦だって数十年も続いたんだ。イスラム原理主義との戦いが、たった数年で終わるはずがないではないか。大切なのは、今すぐ敵を駆逐することではない。(そんなことができるわけがない。)それよりも、取り返しのつかないようなダメージを受けるのを防ぐ、ということの方が重要なのだ。」(細かいところは不正確かもしれないが、大体こんな感じの内容だった。)

非常にプラグマティックで、いかにもアメリカ的な歴史観と言うべきか。最悪の事態を避けることにいちばんの重きを置く。政治的な判断は別にして、一つの態度ではある。

理想を追い求めるヨーロッパ的な世界観は、たしかにロマンティックで魅力的。ただ、理想を追い求めるあまり現実が見えなくなって、気が付いたら奈落の底、ということもありうる。「たしかに理想には程遠いかもしれない。でも、とりあえず今の状態をキープして、立ち直れないくらい悲惨な状況に陥ることだけは避けようよ。そのうちチャンスが回ってくるかもしれないじゃないか」、という態度の方が実用的な場合もある。戦略的なあきらめ、というのも知っておかないと、なかなかキツイ。

ジャコメッティ

ジャコメッティの画集を買おうと本屋に行くが、見つからなかった。仕方がないのでジャン・ジュネの『ジャコメッティのアトリエ』でも買おうと思ったが、こちらも見つからなかった。しょうがないので、家に帰って数年前のMoMA展のパンフレットを眺める。

Diego Seated in the Studio, 1950

ジャコメッティの絵画、あるいはあのヒョロ長い彫刻でもいいのだが、何がそんなに魅力的なのだろうか。疲労の極地で、余計なものすべてをこそぎ落とされた人間が、ギリギリの尊厳を保ちながらそれでもそこにいる、ということなのだろうか。

疲労が溜まってくると、無駄な体力を消費する余裕がなくなるので、感情のブレも少なくなるし、日常の行動もスリムになる。自動人形の果てに自由が訪れる感じ。

「人間は肉を捨て去り、骨にならなければならない」、というようなことをアルトーが言っていた。疲弊の果てに生まれる崇高さ、というのもあるのかもしれない。

Monday, January 4, 2010

American Hero

朝、目が覚めてからベッドから出るまでのわずかな時間がいちばん嫌い。完全に覚醒していないので自分の感情を凍結できない。もっとも無防備な時間。非常にフロイト的な枠組みで言うと、日中は無意識のなかに抑圧されている悲しみや虚しさが上の方にニョロニョロとあがってくる感じ。うんざりする。

昨夜、テレビで『ダイハード 4.0』を見た。ブルース・ウィルスの一言が、非常にアメリカ的だと思った。こんなセリフ。「俺はヒーローになんてなりたくなかった。別れた妻は俺の名前を忘れようとしている。娘は口も利いてくれない。毎日ひとりで冷たいピザを食べる生活。こんなのに憧れるのか?」

アメリカのヒーローには、孤独と疲労が付きまとう。強さと賞賛の表舞台から帰宅したあと、待っているのは真っ暗な部屋と冷凍食品。決して溶けることのない哀しみの固まりが体の真ん中から消えない。でも、泣くことすらできない。

フランス人ならばすぐに群れる。カフェで愚痴る。女の胸ですすり泣く。

1970年代のアメリカ映画が好きだった。Taxidriver、Dog Day afternoon、Godfather、Scarecrow、Serpico... 久しぶりに見てみようと思う。

Sunday, January 3, 2010

神楽坂

勉強会の準備をカフェで三時間半、二時間強の勉強会の後、神楽坂で痛飲。バーで飲んでいたら、隣の人と友達になった。神楽坂で飲んでいると、たいてい隣の人との会話が始まる。そういう意味で、やはりパリ的な街なのかもしれない。

Friday, January 1, 2010

人間の特権

正月らしいことも特にせず、普通の一日。午後から書類を作成し、夜は勉強会の打ち合わせなど。後は先日いただいた高級焼酎を飲んだりとか、そんな感じ。

「文化とは全く生産性のない時間を過ごすことだ」、というバタイユの主張もいいよな、と思う。「生産性を上げるために無駄な時間を排除する」とか、「未来のために現在の快楽を犠牲にする」というのもそれはそれでいいのだけれど、すべての活動を生存のために捧げる、というのでは動物と変わらない。人間なんだから、生き延びるという観点からは全く役に立たない時間を楽しむ、という特権を享受するのもいいのではないか。

「自分の生活をしっかりとマネンジメントして、確実にキャリアアップしていこう」という一面と、「そんなこと知ったこっちゃネェよ。ゴチャゴチャうっせぇな。いまやりてぇことだけやってくよ」という一面がある。基本的には「やりたいことだけやってくよ」という態度をとりつつ、手すさびとしてマネンジメントなどもしてみる、というのがいちばん合ってるな、と思う。

真面目になったとたんに人生は重くなり、フットワークも悪くなるからパフォーマンスも落ちていく。

全ての人にいい顔をしようとすると道に迷うし、自分のエッジも消えていく。自分のことを嫌っているやつらもいるんだ、ということを織り込んだ上で行動した方が個性も生きる。あとは、常識とか加減というものは基本的に邪魔クサイので、自分のフィーリングを大切に一気にグワッってやってった方がいいや、とも思う。

バタイユに代表される否定神学的な態度、研究対象としては流石にうんざりだけど、生きる指針としては相変わらず魅力的だな、と思う。そんな、色々なことを思う正月の夜。