なんだかやたらと忙しい一週間。引越しやら家具の組み立てやら、日用品を買ったり家電を買いなおしたり、さらに講演会にも行ったし、インタビュー記事の校正や人との食事もあった(大学の後輩と知り合えて面白かったけど)。ここらで少し積極的休養をとらないと後に響きそう。
「人間は自由である。しかし自らを自由と信じない限り、もはや自由ではない」というようなことをカサノヴァが言っていた。
かつて、いかにカッコよくハッピーに生きるか、ということが自分のテーマだったことがある。そこら辺の基本は忘れてはいけないと思う。
いま、ニーチェの本が売れているらしい。しかし、ニーチェの中に何らかの答えを見いだそうとするならば、それはニーチェ自身を裏切ることとなる。ニーチェが言っているのは、現実を直視し、徹底的に自分の頭で考えること。彼は読者が自分の弟子になることを強く否定する。
二十歳くらいでニーチェと出会い、そこからずっとニーチェは私のそばにあった。現実を見つめ、たとえどんな状況にいようとも気高くあること、没落しようとも自らの道を進むこと、従うべき指針はみずからの手で作ること、世の中の善悪、道徳は歴史の中で形成された人為的な価値観であり、決して絶対的なものではないこと、そういったところに大きな影響を受けてきた。
ニーチェ曰く、人は誇り高い貴族でなければならない。しかし貴族の証しは過去の系譜によって決定されるのではない。現代の貴族は、みずからが作るみずからの未来によってその称号を手にする。自分がこれから成し遂げる行動、何を考え、何を行うか、それが自分自身を貴族へと変える。
ニーチェのツァラトゥストラの中に、こんなシーンがある。一匹の龍と一頭の獅子が対面している。龍のうろこには数千年もの歴史を背負った「汝成すべし(お前は~をしなければならない)」が刻み込まれている。対して獅子は「我欲す(私は~をしたい)」と吼えかかる。
龍に迎合するのではなく、獅子として生きること、そして現在の己を超越すること。いまの日本に、「我欲す」と吼えられる獅子がどれほどいるのだろうか?
人間は誰でも、獅子として生きる自由がある。獅子として吼えることができないのならば、あるいは吼えることすら忘れているのだとしたら、それは幻想の龍に知らないうちに絡めとられているからである。まずは、自分がいま一番したいことをやってみるといい。小さな欲望を叶えてあげることで、より大きな欲望が目を覚ます。ラカンが言うように、欲望に終わりはないのかもしれない。しかし欲望は生きるモチベーションとなる。
「人間は自由である。しかし自らを自由と信じない限り、もはや自由ではない」というようなことをカサノヴァが言っていた。
かつて、いかにカッコよくハッピーに生きるか、ということが自分のテーマだったことがある。そこら辺の基本は忘れてはいけないと思う。
いま、ニーチェの本が売れているらしい。しかし、ニーチェの中に何らかの答えを見いだそうとするならば、それはニーチェ自身を裏切ることとなる。ニーチェが言っているのは、現実を直視し、徹底的に自分の頭で考えること。彼は読者が自分の弟子になることを強く否定する。
二十歳くらいでニーチェと出会い、そこからずっとニーチェは私のそばにあった。現実を見つめ、たとえどんな状況にいようとも気高くあること、没落しようとも自らの道を進むこと、従うべき指針はみずからの手で作ること、世の中の善悪、道徳は歴史の中で形成された人為的な価値観であり、決して絶対的なものではないこと、そういったところに大きな影響を受けてきた。
ニーチェ曰く、人は誇り高い貴族でなければならない。しかし貴族の証しは過去の系譜によって決定されるのではない。現代の貴族は、みずからが作るみずからの未来によってその称号を手にする。自分がこれから成し遂げる行動、何を考え、何を行うか、それが自分自身を貴族へと変える。
ニーチェのツァラトゥストラの中に、こんなシーンがある。一匹の龍と一頭の獅子が対面している。龍のうろこには数千年もの歴史を背負った「汝成すべし(お前は~をしなければならない)」が刻み込まれている。対して獅子は「我欲す(私は~をしたい)」と吼えかかる。
龍に迎合するのではなく、獅子として生きること、そして現在の己を超越すること。いまの日本に、「我欲す」と吼えられる獅子がどれほどいるのだろうか?
人間は誰でも、獅子として生きる自由がある。獅子として吼えることができないのならば、あるいは吼えることすら忘れているのだとしたら、それは幻想の龍に知らないうちに絡めとられているからである。まずは、自分がいま一番したいことをやってみるといい。小さな欲望を叶えてあげることで、より大きな欲望が目を覚ます。ラカンが言うように、欲望に終わりはないのかもしれない。しかし欲望は生きるモチベーションとなる。
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