過去というものは常に美化されるもので、例えばパリ留学時代、ルーブルの界隈をただただ当てもなくさまよい歩いていた日曜日の午後も、当時としては寒く退屈な一日でしかなかったにもかかわらず、いまとなっては異国の地でのどこかほろ苦く、しかし限りなく甘美な思い出となっている。過去を美化して現在と比較し、現在の情けなさを嘆くというのはあまりにもむなしい。一度も得たことのないものをあたかもかつて手にしたもののように思い込み、それを所持していない自分を悲しむということをアガンベンは「メランコリー」と呼んでいた(ような気がする、よく覚えていない)が、それではパリ時代に果たして僕は何をしていたというのだ。あるいは、いま僕に、まさにこの土地でいったい何ができるというのか。
「異邦性」というものがもつある種の気楽さと孤独にあこがれを抱くというのならば、どこにいようとも人生そのものを異邦人として全うすることもできる。ムルソーが実現したことであり、その意味で彼はスタヴローギンに通じる。世界は劇場であり人生は演劇だ。一人の俳優としてこの生をいかに演じきるのか、真の俳優になれた時、運命はおのずと向こうからやってくる。自分と世界との間に真空のすき間をつくること、世界が密着しすぎると息ができない、窒息死する。
パリに住み、マラケシュを放浪し、それは冒険だったのだろうか。すべての行動の責任が自分にかかっているという点において、だからこそそこには自由があったという点において、確かにそれは冒険だったのかもしれない。そうであるならば、この瞬間も冒険にできる。
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