Wednesday, January 9, 2013

疲労

疲労のため今日はパス。もう寝ます。がっつりがっつり進んでいく。

Tuesday, January 8, 2013

ビジネス

ビジネスをしていくということは数値目標を立て、プロセスマネジメントをつくり、責任の所在を明らかにし、粛々と数を達成させていくこと。チームの団結力や個々人のモチベーションも、すべては数字に表れる。だからこそ常に数を中心におかなくてはならない。 

ビジネスに人間関係や感情はいらない。全チームメンバーに数を共有し、自分が責任を負う数をそれぞれが達成するように絶え間なく求め続けること、それがリーダーが行うべきこと。ただ、リーダーとメンバーという二者のみの間でのやりとりが発生したとたん、そこには指示を出す人間とやらされる人間の二項対立が生まれる。常に三者以上の介入のもとに問題の解決策を探ること。 

難しいのは、失敗を繰り返し、自信を失ってしまっているメンバー。関わらなければ確実にそこから数がもれる。できないことに対して怒りを覚えるのではなく、どうすれば数を生み出せる人間になれるのかをチーム全体で考え、求め続けること。 

数は本質的にはその仕事に対する情熱で決まる。いつまでたっても数を生み出せないままでいるのならば、そして徐々に仕事の被害者になっていくのならば、その人間は去るべきだ。居残り続けてもお互いにとって不幸なだけ。 

だからこそ、あなたはどうしてこの仕事をしているのか、あなたにとってこの場所とはいったいなんなのか、あなたはあなた自身の人生において何を大切にして生きているのか、ということを問い続けなければならない。ビジネスは最終的には哲学に行き着く。哲学でないビジネスはビジネスとは呼ばない。

Monday, January 7, 2013

AO

頭の中からフランス語が消えていく。アルジャーノンではないけれど、とても悲しい。ネットでフランス語のラジオを聞きながらこの文章を書いているが、日常的な会話ですらかなり集中しないと聞き取れない。大学で勉強したことが社会人としての人生において役に立たないとはいかがなものか。いや、フランス語が話せる、ということを自分の強みとして自分のキャリアを再構築していくべきなのかもしれない。

大学を卒業しても15%の人間が就職も進学もしない現代において、社会の中で食っていくためには自分で自分をプロデュースする能力が不可欠である。大学入試においてはそれがAOという形であらわれている。生きるということは永遠のAO入試である。それは自分の過去と現在と未来を一つの物語として語るということであり、ポール・リクールが言うところの物語的同一性(identite narratif)、つまり生そのものである。

言い換えれば人生を演劇として演じきるということであり、それは生存していくために僕が命をかけてパリで学んだことでもある。他人とつながらなければ直ちに死にいたる世界において、いかにして自分を魅力的な商品として提示できるか。それを入試というフィールドにおいて発見していくのがAOであり、同時にそれはリーダーという立場にいるいまの僕自身にも強く求められるものである。リーダーはチームのメンバーを生徒とするAOの講師である。

Sunday, January 6, 2013

徒然

ICUのベランダでひとり煙草をふかしていた午後、パリの中華街をぶらぶらと散歩していた冬の日、過去に点在するいくつもの自分が同じ一人の自分だと思うと、なんだか不思議な気がする。いまの自分も未来から見れば点在する過去の一点にすぎないのかもしれない。 

身体性の問題。人間の幸福は頭ではなく身体に宿る。常に身体を中心に考えること。自分の脳にだまされないこと。常人でいる限り幸福にはなれない。狂人であれ。

Saturday, January 5, 2013

メランコリー

過去というものは常に美化されるもので、例えばパリ留学時代、ルーブルの界隈をただただ当てもなくさまよい歩いていた日曜日の午後も、当時としては寒く退屈な一日でしかなかったにもかかわらず、いまとなっては異国の地でのどこかほろ苦く、しかし限りなく甘美な思い出となっている。過去を美化して現在と比較し、現在の情けなさを嘆くというのはあまりにもむなしい。一度も得たことのないものをあたかもかつて手にしたもののように思い込み、それを所持していない自分を悲しむということをアガンベンは「メランコリー」と呼んでいた(ような気がする、よく覚えていない)が、それではパリ時代に果たして僕は何をしていたというのだ。あるいは、いま僕に、まさにこの土地でいったい何ができるというのか。

「異邦性」というものがもつある種の気楽さと孤独にあこがれを抱くというのならば、どこにいようとも人生そのものを異邦人として全うすることもできる。ムルソーが実現したことであり、その意味で彼はスタヴローギンに通じる。世界は劇場であり人生は演劇だ。一人の俳優としてこの生をいかに演じきるのか、真の俳優になれた時、運命はおのずと向こうからやってくる。自分と世界との間に真空のすき間をつくること、世界が密着しすぎると息ができない、窒息死する。

パリに住み、マラケシュを放浪し、それは冒険だったのだろうか。すべての行動の責任が自分にかかっているという点において、だからこそそこには自由があったという点において、確かにそれは冒険だったのかもしれない。そうであるならば、この瞬間も冒険にできる。

Friday, January 4, 2013

cold day

Cold day. I have nothing to write. What I wanted to do when I was young was nothing but living my life, but what the hell is life? When I was young, when I was 20's, I lived in Paris, just for one year, I studied french literature at Paris university, so what. So what. Yes, like Miles, So what. Life? So what. 

I do not know what I want to do. This is a problem of my desire. I can not live. What I use when I work is just logic, and this is why my job is not art, but fundamentally life is art, the world is theatre, I am an actor.  

久々

明けましておめでとうございます。久しぶりの投稿。相変わらず仕事で忙しい。バランス感覚が重要。

ゴーギャンではないが、「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」、そんなことを考えていた年末年始。まとまった時間がとれないと自省にふけるということすらできない。

人生を他人に預けているとき、人は言葉を失う。僕はまだ言葉を失っていないのだろうか?これは果たして僕の、僕自身の人生なのだろうか。社会に自殺させられたものとしてのゴッホというアルトー的な解釈に対して、自分自身はそのような屈し方はしたくないと思う。「人間は自由である。しかし、自分が自由であるということを忘れたとき、もはや自由ではない」というようなことを誰かが言っていた。(誰だったのだろうか?)僕はまだ自由でいられるのか?

僕はやはり書き続けなければならない。最後に文章を、仕事用のものではなくて自分自身の、文章を書き終えてからかなりの時がたつ。多くのことが起きた。身近に死が迫り、現実がのしかかり、視野狭窄、社会が首を絞め、顔がこわばる。だからこそ、言葉によって、多少強引にでも自分自身の核にある自分をえぐり出さなければならない。

いまの僕の生には笑いとディオニソスが足りない。だからクリエイティビティが生まれない。だから仕事でもブレイクスルーが起きない。ラブレーのいうアゼラリストに成り下がってはいけない。ヘッセの『荒野のオオカミ』、最後に高らかに鳴り響くゲーテの笑いを思い出さなければならない。

MBAよりもMFAが重宝される時代、二十代の頃に人生のすべてを捧げた文学と哲学とアートを糞の肥やしにもしていない現状はなんなのか。「現代の俳優は叫ぶことを知らない」というアルトーの言葉、人生は演劇であるという意見には強く強く同意する、だからこそ僕は叫ばなくてはならない、のどが裂けて身体が深紅で覆われるまで。